十日町Pの思ったことを根拠なしに言い放つブログtokamachiP’s blog

根拠がなくても自信たっぷりに言えば、説得力が増すというイリュージョンをお目にかけるブログ

節目には苦手な食べ物に挑戦してもいい話

お題「昨日食べたもの」

お題スロットをやってみたら「昨日食べたもの」だそうだ。

 

今回の記事のテーマと似ているような気がしないでもない。

昨日食べたものについて全国3000万人のはてなブロガーが一斉に記事を書いていると思うと、壮大なプロジェクトのように思えますな、という夢を見た。

 

 

さてみんな、食べ物の好き嫌いはあるかな?

 

ぼくは、基本的には何でも食べられるんだけど、実家の漬物が苦手だ。

 

味と食感が苦手で、口にすると早く飲み込もうと思ってしまうんだな。

なので、食卓にあってもあまり積極的に手を伸ばすことはなかったりする。

 

 

で、子供の頃に嫌いな食べ物というのは、大人になったら食べられるようになるということがある。

 

だから、節目、あるいは数年たったら一度はチャレンジしてみることをお勧めする。

するとあら不思議。

前は嫌だったのに、食べてみたら不思議とおいしかったなんてこともあるだろう。

 

ぼくの体験としては、トマト、納豆、イカの塩辛、漬物などが苦手だった。

 

トマトや納豆が苦手なのは、食感が受け付けられないという理由から。

トマトは果肉の部分はいいんだけれど、種のところのぬるっとした部分がかつては苦手であった。

 

納豆も、ネバっとした感触が受け入れられなくてね。

 

でも、トマトは中学生くらいになったころにはもう普通に食べられるようになっていたし、納豆はパックにからしとたれがついてくるようになったあたりから食べられるようになった。

 

どちらも、苦手だと思ったことが苦手でなくなってきたのである。

 

様々なプレイを経験した後だと、ぬるぬるくらいはどうってことないってことがわかる。

 

様々ってのはあれですよ?

すき焼きの肉をとき卵に絡めたり、しゃぶしゃぶの鍋に肉をくぐらせたり、チョコレートファウンテンで罪もないお菓子たちをチョコまみれにしたり、チーズフォンデュで、様々な具材を熱々のチーズに絡めたりとかそんなこと。

 

「様々なプレイ」でエッチなことを考えた人は心が大人になってしまった証拠です。

 

なので、味じゃなくて、食感で苦手だなぁと思っている人は、試したら食べられるようになっているかもしれない。

 

ぜひやってみてほしい。

 

 

イカの塩辛に関しては食感もそうだし、味もあんまり好きじゃなかった。

でも、こちらは成人してからご飯のお供として食べるようになったら急に好きになった。

 

なぜか。

 

理由は二つ考えられる。

 

ひとつは、それまでにたくさんの食べ物を食べて、舌が経験を積んだこと。

同じものを食べ続けない限りは、毎日違う刺激にさらされている。

 

甘味、酸味、塩味、苦味、うま味

 

苦手なものでも、少しずつ食べれば許容範囲が広がっていく。

いわゆる慣れってやつだ。

 

そして、許容範囲が広がっていけば未知の味にも対応できる。

 

慣れていないものは、刺激が強い→拒絶→食べたくないってなるんだと思う。

 

味以外での例になっちゃうけど香りによって苦手意識が生まれることもある。

パクチーなんかはその代表格で、好きな人は好きだけど、ダメな人はパクチーをよけても入っていた料理はあまり食べたくないなんて人もいるくらい。

 

これも慣れの問題で、日本食はあまり香りが強いものは出されたりしないよね。

だから、パクチーはそんな常識を打ち破ってくる食べ物。

 

それまでに香草をたくさん嗅ぐなんて経験はないと思うので、初めて食べた人には強烈な印象を残すだろう。

 

これも、食べ慣れれば普通に食べられるようになるので、パクチーが苦手な人はたまに食べてみるとある日急に「ん?イケんじゃん!」となるかどうかはあなた次第。

 

 

苦手なものが食べられるようになる二つ目の理由は老化。

 

老化とも違うかな。鈍化。

昔は感じられた嫌なものが感じられなくなって、だから食べられるようになる。

 

慣れの延長戦じょうにあると考えてもいいのかもしれない。

 

ぼくたちが普通に食べている精製された砂糖。

これは、普段砂糖を食べない未開の地の部族の人たちにとっては、「毒」にもなりえるそうだ。

 

でも、ぼくたちは砂糖を食べても「甘い」で済んじゃうよね。

カルピスの原液を想像してもらうとわかると思うんだけど、あれって薄めないで飲むと濃すぎて、なんだか舌がバカになりそうじゃない?

 

きっとそんな感覚。

 

あとは、テレビでたまに見かける激辛好きの人。

普通の人は、激辛注意!みたいな食材を食べると、むせたり、舌が痛かったり、汗が止まらなかったりする。

体が激辛成分をそれこそ「毒」とみなして、反応している。

 

でも激辛好きの人はそんなことはなく、普通にパクパク食べたりしている。

これは、その成分に対して免疫みたいなのができているか、知覚する器官が鈍くなっているんじゃないかな。

そうしないと生死にかかわるから。

 

ちょっと話がそれたけど。

 

そんな感じで、味をシャットアウトするってことはある。

ぼくたちも年を取るにつれて、味を感じる味覚が必ずしも鈍ってきているとは言えないけれど、モスキート音のように気が付かないうちに失われている機能なんかもあると思う。

 

だから、歳を取ってから苦手なものを食べると、昔嫌だった味に気が付かずに案外食べられるってことがあるんじゃないかなって思う。

 

 

 

食べる節目に関しては、高校生くらい、成人してから、社会人になってから、あとは30歳、40歳、50歳くらいのスパンで試してみてほしい。

 

 

高校生くらいは、とにかく腹が減る頃。

食べられれば何でもいいって時期がある。

特に運動部に入っていたら、部活後のご飯ほどおいしいものはないよね。

 

こんな時は苦手なものでも勢いで食べて、うまいじゃん?!ってなる可能性はある。

 

次、成人してからというのは「お酒」を飲む機会が増えるから。

お酒が飲めない人はごめんね。

 

お酒も、やっぱり味覚を鈍化させる作用がある。

酔っていてよくわからないってことなんだけど。

だから、苦手と思わないってことがある。

 

それと、お酒のみの人はわかるかと思うんだけど、なんかね、珍味とかそういうやつをお酒に合わないかと試してみたくなるんだよね。

 

沖縄料理屋で出てくる「豆腐よう」とか店で売られていてもあんまり買わないと思うんだけど、飲み屋のメニューで置かれていたら「なんだこれ?!食べてみよう!」ってなる。

 

豆腐ようは発酵食品だから、これも結構あうあわないが分かれる味。

そんなものでも、お酒と一緒に食べると、うまいって思えたりするんスよ。

 

だから、お酒を覚えた時に苦手な食べ物にチャレンジしてみるのはありです。

 

 

社会人になってからっていうのは、給料がもらえるようになって、食べに行くお店の種類が増える頃だね。

 

そうすると、いろんなお店に行って、舌の経験値を増やすことができる。

経験を積んだ舌は、昔の苦手な食べ物さえも克服できるほどに鍛えられているかもしれないぞ!

 

で、30代、40代になってからっていうのは、老化によって味を受け入れられるようになっているかもしれないっていう悲しい予想から…。

 

てなかんじで、節目ごとに苦手なものを試してみると、もしかしたら食べられるようになって食の広がりがあるかもしれない。

 

 

それで、ぼくはこの記事の構想をしているときに、ちょうど家の食卓に「普段は食べない苦手なもの」が3品置いてあったのね。

 

「読んでくれる人にはっぱをかけているのに、自分は何もしないのはいかんな」と思って、少量ずつ食べてみたよ。少量ってのがチキンな証拠なんだけど。

 

そうしたら、その中の1品で無事えずいてしまいました。

うーん、まだ早かったか。

次のチャレンジはまた日を置いてからにしようと思う。

 

 

でも、苦手なものを克服できればそれに越したことはないけれど、無理に食べる必要もないかなって思う。食事が楽しくなくなったら、意味がないからね。

 

そんなわけで、気が向いたら節目に苦手な食べ物にチャレンジしてみましょう!

 

 

腰かけブログもなんだか10記事くらい書いたみたいです。

意外と早い感じ。

 

本ブログもあるのでよかったら読んでみてください。

 

本ブログはこちら

十日町PのDTだったら何が悪い!

https://around40-dt-tokamachip.info/

 

 

希望はほんのちょっとでいい話

今週のお題】好きなおやつは何ですか?

のほかに「お題スロット」なるものがあって、数々のお題を提案してくれる模様。

めっちゃクリックしてみましたが、スロットという割に種類がそんなになくて、20回もクリックすると同じお題を何度か見かける。

 

日替わりなのか、月替わりなのかわからないけれど、もうちょっと種類を増やしたほうが、いいかなと。家電とか断捨離のお題でブログをかける人ばかりじゃないんですよ。

 

 

脱線しました。

 

 

みんな、希望をもって日々生きてるかな?

 

希望ってなんだかキラキラした響きを持っているよね。

 

「希(まれ)な望み」と書くように、「うまくいくかわからないけど、こうなったらいいと思うよなそんな明るい未来」を指しているような気がする。

 

進学・就職するときに「夢と希望を持って」みたいなフレーズがあるから、夢も希望も同列に扱っているんじゃないかな。

 

でも、夢も希望も年を取るとともに段々と達成するための意欲が下がっていく。

 

「こうなりたい!」「成長するぞ!」「夢のために頑張る!」みたいな気持ちが下がっていくのはそれを達成する見込みが下がってくるからだろう。

 

スポーツ選手では、その夢を見る時期というのは年齢が低い。

中学校、遅くとも高校までに結果なり成果なりが出ない場合は、あきらめて普通に進学する。

 

あきらめずに大学でも運動を続けて、それで世界に通用するような選手になるのはほんの一握りだからだ。そんなわずかな可能性にかけるよりも、あきらめて別の可能性を模索したほうが効率が良い。

 

で、社会人になったりして、成長を意気込むけれど、どうしようもできない能力の壁があったり、会社の中での位置づけであったり、世の中の世相を理解すると「あ、俺もうここら辺がピークだわ」と思っちゃう。

 

努力してもこの先、良い方向に向かう可能性が少ないと考えちゃうと努力はできなくなってしまう。

 

でもね、「希望」ってのはそんなにたいそうなことじゃなくていいの。

 

夢と一緒くたにされるせいか、希望もなんか、どでかいことを果たさないといけないような気持になりがち。

 

そんなことないよ。

 

希望の意味はこんな感じ

 

    1.  あることの実現をのぞみ願うこと。また、その願い。

    1.  将来に対する期待。また、明るい見通し。

     引用:https://dictionary.goo.ne.jp/word/%E5%B8%8C%E6%9C%9B/

 

多くの場合は、2番の「将来に対する期待。また、明るい見通し。」の意味でつかわれると思う。

 

で、自分もそうだし他の人もそうだと思うけれど、「人は頑張れば成長してく」って思いが結構あって、「停滞や変わらないでいるとダメ」みたいな雰囲気があったりする。

 

そんな思いがあるから、成長できない時期が長い→停滞している時期が長いと、将来に向かう気持ちってのがどんどん萎えていく。

その人にとって、どうすることもできない事柄(今現在のコロナみたいに)によって、停滞しているのかもしれないけれど、本人はそんなこと気が付けないからね。

 

さらに、その停滞している環境が、自分にとっては辛いものだったら、この辛い環境にずっといなければならないっていう強迫観念だったり、いいかえると絶望になったりする。

 

 

変えようと思っても変えられないというのは自分の無力感を感じさせることの一因だと思う。

何をやっても変えられないなら、努力なんてする意味がないという考えになるのも仕方ないこと。

 

 

でも、実は努力で変えられることなんて割とあるし、希望も実現することが多い。

ただ、それぞれが持っているイメージがでかすぎるだけ。

 

Ω<「毎年年収を100万ずつ上げていくぞ!」

 

って意気込んでいても、何年経っても昇給なしだったら、落ち込んじゃうけど、本業じゃないところで頑張れば、年に1~10万の上乗せは可能かもしれない。

 

Ω<「メディアに取り上げられるような有名人になるぞ!」

 

という人はテレビには出られないかもしれないけれど、インターネットの一部では人気が出るかもしれない。

 

 

昔持っていた、夢や希望を少しスケールダウンして、実現可能な具体的なことに目標を定めていると、努力次第ではかなうこともあるのだ。

 

 

Ω<「夢や希望が小さいなんて意味がない」

 

そうだろうか。

確かに大きな夢や希望を実現させることができれば、その人の人生は充実した豊かなものになるだろうとは思う。

 

でも、実現できそうにないことに向って、頑張って、それで心が折れてしまっては、幸せになれないのではないか。

 

頑張ることを否定しているわけではなくて、頑張った後に挫折して、その時に気持ちが絶望に向かわないのかが心配なのである。

 

人の気持ちを完全に安定させることはできない。

何かのきっかけで、さっきまでの明るい気分が吹き飛ぶほど落ち込むことだっていくらでもある。

 

落ち込んだ時に、人は簡単に超えてはいけない垣根をひょいっと超える。

 

Ω<「そんな馬鹿なwww」

 

と思える人は、極限の絶望を感じたことがない人。いや、ぼくもそうだけど。

でも、心が弱ると「もうどうでもいい」という考えが頭をよぎるのは確か。

 

ネガティブな考えは一瞬で、気持ちを支配して取り返しのつかない行動をしてしまうんだよ。

 

そうならないために、絶望まみれにならないために、日常の中にほんの少しの希望を混ぜておきたい。

 

Ω<「日常の中に希望なんてあるの?」

 

希望という言葉が変なら、やりたいことと言い換えてもいいだろう。

 

・週末に飲みに行く

・帰りにコンビニでスイーツを買う

・休みの日にただひたすらぐうたらする

・密になるといけないから気分転換にドライブ

 

Ω<「これが希望?」

 

自分に対するご褒美をわかりやすい形で与える。

これが最も身近な希望である。

 

 

Ω<「明日飲み会だから、今日はもう少し頑張るぞ!」

Ω<「あー、スイーツ食べたいスイーツ食べたい!早く仕事終わらせよう!」

Ω<「疲れたー。でも、週末ゆっくりするために、これだけやっておこうかな」

Ω<「むしゃくしゃする!どっか行きたい!そうだ!峠を攻めよう!」

 

今の現状と、少しだけ環境を変えた未来。

今の大変な状況はいつまでも続くわけじゃないんだよってことを自分が認識できればそれでいいと思う。

 

やる気もほんの少しだけわくし、ネガティブな気持ちを寄り付かせない効果も多少ある。

 

そんな小さい効果だから、希望っていう言葉は、ちょっと大げさすぎるかなぁと思う。

大げさすぎるけど適当な言葉が見つからないから希望って言葉を使って「ほんのちょっとの希望を持つ」

 

こんな気持ちを持っていてもらいたいと思うんスよ。

 

 

てな感じで今日はおしまい!

 

いやー、腰かけブログでござった。

 

本ブログは以下のブログなので

興味があってもなくても1アクセスをお願いします。

https://around40-dt-tokamachip.info/

 

 

という露骨な宣伝活動でした。

「おまえのかあちゃんでべそ」というのは悪口なのか?という話

新作スイーツ続々あらわる

今週のお題は「好きなおやつ」だそうですが、高すぎるおやつを見てしまうと、「そんなに金を払う必要があるのか」と考えてしまいます。

 

かき氷が1000円越えならば、うまいラーメンを食べたいと思ってしまいます。

まぁ、「商品に対して高いと思う商品は、あなたを商売の相手とみていない」ということなので、もっとお金を稼げるようになってから、かき氷と対決してみたい。

 

 

脱線しました。

 

みんな「おまえのかあちゃんでべそ」という悪口を聞いたことはあるかな?

今回はこの悪口について、どうでもいい話を展開していくぞ!

ためになる話は一つもないので、無駄だと思った人は回れ右を推奨する。

 

「口にしてみたい日本語 ~悪口編~」を集めたら、どこかにランクインしそう。

それくらいポピュラーな悪口だ。

 

ポピュラーすぎて、言っているほうも、言われているほうもダメージがあるとは思っていないんじゃないかってレベル。

 

たとえるならば、年賀状の「謹んで新春のお慶びを申し上げます」って、本気で相手に伝えたいと思っている人はどれくらいいるだろうか。

 

また、その文面を見て「うおおおおおお、新春きたぜええ!!!」と新年を迎えたうれしさや、めでたさを感じる人がどれくらいいるのだろうか。

 

割とみんな素通りなんじゃないかと思う。それよりは手書きの一言のほうがぐっとくるよね。

 

そんな感じで「おまえのかあちゃんでべそ」も試合開始前のこぶしあわせ、食前酒のようなものになっているんじゃないかと。

 

ただし、お母さん大好きっ子で、言葉の意味をそのまま受け取ってしまうようなピュアな子にとっては、思いがけないハードパンチになってしまうこともあるので、相手を見て使っていきたい。

 

細かくつきつめると不思議な悪口

Ω<「おまえのかあちゃんでべそ!」

 

「おまえ、いつ俺の母ちゃんの出べそを見たんだよ?!」>Ω

 

Ω<「えっと、銭湯の女湯で・・・」

 

「おまえ小学生にもなってまだ女と風呂に入ってんのかよ、だっせぇ!」>Ω

 

Ω<「くっ・・・」

 

これくらいの返しができれば、見ていて面白い舌戦だなぁと思ったりする。

確かにおまえのかあちゃんのでべそをどこで確認したか、ニュースソースはどこなのかという責任の所在はあいまいである。

 

むしろ、自分の母親がでべそかどうかすら、わからない子供も多いんじゃないかと思いますがいかがでしょうか。

 

母ちゃんの出べその存在をいつどこで知ったのかというのは謎の一つであるが、事実はどうであれ、相手を貶めることを言ったほうが勝ちという流れが口喧嘩の勝利方法の一つとして出来上がっていたのかもしれない。

 

事実かどうかわからないことを声高に叫ばれても、なんとも反応しづらい。

 

別の変化も見てみる。

 

Ω<「おまえのかあちゃんでべそ!」

 

「おまえ、いつ俺の母ちゃんの出べそを見たんだよ?!」>Ω

 

Ω<「えっと、銭湯の女湯で・・・」

 

「おまえ小学生にもなってまだ女と風呂に入ってんのかよ、だっせぇ!」>Ω

 

Ω<「だって私、女だもん!」

 

「そ、そうでした・・・」>Ω

 

なんという叙述トリック

 

あ、いや、これは思いついたのを書いただけです。特に意味はなし。

 

 

 

逆に、母ちゃんが美魔女過ぎて、愛情の裏返しという可能性もありますよね。

Ω<「おまえのかあちゃんでべそ!」

 

「おまえ、いつ俺の母ちゃんの出べそを見たんだよ?!」>Ω

 

Ω<「いや、しずゑさんのことを目で追いかけていたら、つい目に入ってしまって」

 

「おまえ、そんなに俺のかあちゃんのことを・・・?!」>Ω

 

Ω<「うん…」

 

「でも、歴史的仮名遣いで名前を呼ぶと母ちゃん怒るからな…。ちゃんとしず『え』と呼ばないと叱られるぞ…」>Ω

 

Ω<「おまえ…現代仮名遣いと歴史的仮名遣いの発音を聞き分けられるのか…すごいな!」

 

こんなところから友情が芽生えるかもしれない。

それはさておき、でべそだということがわかるほどに、相手のことを観察していたその観察力に脱帽したい。

もうそれは、愛、でしょう。

なにせ、相手は知り合いの母親である。

生半可な意気込みでは腹部を注視していられない。

 

が、口喧嘩をしていた相手が甥っ子で、おまえの母ちゃんがこちらにとっては姉か妹なのだとしたら、でべそであることを知っていても何ら不思議はない。

 

しかし、そうなると愛情を注いでいるのは姉か妹・・?

という考察を繰り返していくと家庭環境が複雑になりそうなのであまり考えないことにする。

 

深く傷つけない悪口

Ω<「おまえのかあちゃんのでべそ!」が

 

Ω<「おまえのかあちゃんドブス!」だったら、どうだろうか。

 

ドブスの場合は、はっきりと、「器量が悪い」「醜女(しこめ)である」「見ていられない面構え」という相手をけなす行為である。

少しでも、外見を気にするような人であったならダメージを受けることだろう。

 

でべそは事実に基づいているかはわからない悪口なので、あまりダメージを受けることはないかもしれない。

 

とすると、最初に「ドブス」といった人が

 

Ω<「ドブスはちょっと言い過ぎかもしれない…。別の言い回しにしよう!」

 

と気を遣ってくれて、「でべそ」が誕生したのかもしれない。

 

なにせ、

 

ドブス → 「DOBUSU」

でべそ → 「DEBESO」

 

子音が一緒で、母音を少しずらしただけという言語的つながりがあるのだ。

と言えなくもない。

 

 

父ちゃんの悪口はあんまりない

母ちゃんの代わりに父ちゃんの悪口ってあんまり聞かないんだけど、あるのかな?

 

マンガ「だがしかし」で

 

(ほ)<「おまえの父ちゃんユーチューバー!」

 

ってことをヒロインがしゃべっていたが、容姿よりもやっていることを囃し立てられると、子供としてはどうしようもないので、対処方法がなくてダメージがでかい。

 

本人になんとかできることと、本人にはどうしようもできないことがあり、本人にどうしようもないことを悪口として使われるのはつらいものなのだ。

改善しようと思ってもできないからね。

 

 

 

「おまえのかあちゃんでべそ」は、確かに言いやすいフレーズかもしれない。

とりあえず、悪口を言うときに、ビールのようなお手軽さで出てくる言葉だ。

 

ただ、とりあえず口にするだけで、悪口としての意図は薄いと思う。

悪口として刃を剥くような言葉だったら、周囲から止められるか、禁止されちゃうからね。

だから、時代が変わってもこの悪口?というかフレーズはゆるい感じの言い回しとして生き残っていくと思う。

 

そう考えると、「おまえのかあちゃんでべそ」は、言葉の意味はきっとどうでもいいものなので、言われた方はあまり気にしなくてよろしい。

 

 

 

というようなことを単調な農作業の間に考えていました。

まとめはありません。

 

 

腰かけなのに今回はかなり時間がかかってしまった。

適当なブログなので適当に済ませてしまいたかったのに。

 

本ブログは以下のブログである

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本ブログのほうをよろしく。

自分を貶める笑いは受け入れられる話

新作スイーツ続々あらわる

今週のお題は「好きなおやつ」だそうです。

 

ぼく世代だと、「パンの耳を揚げて砂糖をまぶしたやつ」というと共感する人が多いんじゃないかと思う。

 

現代風に言うとラスクである。

ほんとかな。

 

 

みんな、悪口は好きかな?

 

人の不幸は蜜の味というくらい、一般的には不幸な話は受け入れられやすいものであることが多い。

 

ただし、あまり生々しい話だと、拒絶反応が出てしまうので、そこまで不幸のどん底に落ちた話はでてこない。

 

本当にちょっとした悪口が面白かったりする。

 

結構いい給料をもらっている上司がケチだったり、

食べ歩きが好きで「いい店にいつも行っているんだ!」というような人がペットボトルの水と水道水の見分けが出来なかったり、

スタイル抜群の女性が、胸パットをしているなんて話があったりもする。

 

 

悪口はいつも見えているその人の人柄と合わないような顔を持っているということが実は面白い。

 

Ω<「じゃあ、悪いことじゃなくていいことでもいいんじゃないでしょうか」

 

そう。いいことをうわさしても同様の効果はある。

 

人付き合いの悪そうな人が、残業で遅くなりそうなときにこっそり手伝ってくれたり、酔いつぶれた時に遅くまで介抱してくれたり、知り合ってそんなに経ってないのに、困っているからと言ってお金を貸してくれたりする。

 

これもギャップがあっていいネタになるんだけれど、悪口ほどには続かない。

なぜか。

 

いいことをしている人の話をするというのは他人の優れているところを評価しているということになり、相対的に自分の評価が低く感じられてしまう。

 

自分が小さな人物に思えるような話はしたとしても一回きりで何回もするようなことではないので、それほど話したいという気持ちがわいてこないのだ。

 

ただし、芸能人スターなんかのいい話をするのは、また別で、話すたびにああ、やっぱり素敵という気持ちを再認識して気持ちを高めることができるので、ファンになると、その対象の人を誉めたくなる。

 

冬のソナタが流行っていたころはヨン様素敵という声がそこかしこで聞こえてきたものである。男のぼくから見てもかっこよかった。

高校生編を演じるのに、20歳を過ぎていたのに代役を立てずに学生服を着て演じていてもカッコよかった。

 

チェ・ジウさんはちょっと無理があったことも僭越ながら付け加えておきたい。

 

それはそれとして、ファンとその対象という関係は、もとから差がついているので、いくらほめても劣等感を感じることはない。

 

というような現象は、悪口にも言えることで、他人をけなして貶めることで、相対的に自分の評価が上がったように思えてしまうからだ。

 

まぁ、でも、そんなことをして自分の評価が上がった気になったとしても現実に気づいたときに愕然とするのは自分なので注意したい。

 

 

さて、悪口が面白いのは先ほどの理由を含めて3つほどある

1.相対的に自分を高める

2.悪口が正しい情報だった場合、共感を得られる

3.普段知られてない面を伝えるスクープの意味合いがある

 

1はすでに解説した通り。

 

2については、自分と同じ思いを持っていた人に肩入れしたり親しみがわいたりすることによる。

 

同じ趣味の人が、仲良くなりやすいように、同じ志向を持つ人は仲良くなりやすい。

今回は悪口というトリガーが、意識の共感を得て、話す人も聞いている人も仲良くなりやすくなる。

 

Twitterや、このはてなブログでさえも、「いいね!」とか「おきにいり」を頻繁にしてくれる人には親近感を持つと思う。

これと同じような作用がある。

自分から悪口のネタを提供し、受け入れてもらい、相手からの情報にも共感する。これはかなりの快感だろう。

 

3は、誰も知っていない情報をすっぱ抜くというブンヤのような理由であるが、それによって、注目を集めたり、称賛されたらうれしいという気持ちがある。

人のプライベートを暴露するなんてのはあまりいい趣味とは言えないが、テレビなどのマスコミでも行っていることなので、それほど抵抗感を持っている人は少ないのかもしれない。

 

 

以上の理由から、飲み会やあまり大っぴらではない場所で悪口が飛び交うことになるが、悪口を言いすぎると自分に対してヘイトが集まってしまう。

 

 

それはそうだろう。

腹を割って話したことを脚色してみんなに言いふらされたり、隠していたことをあけっぴろげにされてしまうような人とは中々オープンには付き合えない。

 

距離をとるか表面的には仲良くしている風を装うような関係になってしまう。

 

 

だから、そうならないためにも、悪口を言うときは自分に関係する事柄をしゃべると、面白くてしかも嫌みがない

 

 

特に見た目に関しては「これ触れてもいいのかな…?」と思えるような部分を持っている人がいる。

 

ぼくで例えると

・髪の毛が薄くなってきた

・小太り

・DT(何の略かは割愛)

・毛深い

 

などなど。

他にもたくさんあるのだけど、これくらいで勘弁してください。

 

Ω<「いやー最近髪が薄くなってきてねぇ、このままだと来年にはもうないかもしれないけれど、それなら散髪代いらなくなってお得かな?」

「HAHAHAHA」>Ω

 

みたいな感じで言えることができれば、誰かを傷つけることはないし、他の人にとってはあっ、これは話題にしてもいいネタなんだって思える。

それに自分のことをオープンにしている人なんだという信頼感も場合によっては得られる。

 

 

会話というのはコミュニケーションなので、コミュニケーションで誰かが不快になったりするようなことは、大人になったら避けるべきだと思う。

 

それは悪口だけじゃなくて、作法や振る舞いといったことも含まれる。

だから、ビジネスマナーやテーブルマナー、慶事・弔事のしきたりなどいろいろ発展してきた。

ただし、マナーなどは相手を思いやる気持ちがあれば、別にマナーから外れていてもいいと思う。

 

相手を思う気持ちがマナーになったのであって、マナーを重視するあまりに、マナーに固執するのはおかしい。

 

すんごいのどが渇いていて、水を飲みたいときに「飲むか?」なんてぶっきらぼうに水を差しだされてもうれしいし、

 

Ω<「ババアが辛そうに立ってるんだからどけよガキ!」

みたいな口調の人がいてもお婆さんを気遣っているから出る言葉なんだろうと思える。

 

ふむ。また話が脱線した。

 

 

というように自分に向けた悪口というか失敗談は割と受け入れられるし、人を傷つけないし、自分をオープンにできるしでおすすめである。

 

 

ただし、犯罪まがいだったり、人を傷つけたというような失敗談、重すぎる実体験は受け入れられない。

 

 

Ω<「いやー、子供のころ、近所の駄菓子屋で万引きをしまくってたんスよ。若かったっすね…(照)」

 

Ω<「大学時代に6マタしてたんだけどばれないもんっすね(照)」

 

Ω<「闇金で借金したら知らないうちに800万になっていて、今、毎月返済が30マンあるんスよ…どうしましょうかね(照)」

 

照じゃねーよ!

 

というような過去があったとしても心の中にしまっておくほうが良い。

見せないほうが良い現実も世の中にはたくさんある。

 

 

加えて、自分を貶めることで自分がつらくなるようなら無理にそういったことに話題を振らなくてもよい。

毎回「毛が無くて…」と言ったら卑屈に取られてしまうかもしれないし。

 

 

といったわけで、悪口風味の話をしたいときはまずは自分を対象にした悪口を話してみようというお話でした。

 

 

腰かけなのに3000文字を超えてしまった。

腰かけなので執筆時間は74分でした。

 

ぼくの本ブログはこちら

十日町PのDTだったら何が悪い!

 https://around40-dt-tokamachip.info/

 

 ↓本ブログのほうで似たテーマで書いた記事

自分を貶める笑いは受け入れられる~他人の失敗よりも自分の失敗を話す~

https://around40-dt-tokamachip.info/2018/10/18/mymistakes/

選挙に行かないとスマホやゲームがなくなるかもしれない話

亀の甲より年の功

今週のお題は「おじいちゃん・おばあちゃん」です。

 

スマホもゲームもお年寄りの方には似合わない(キリッ)と思っていても、自分たちがあと20年もしたらスマホもゲームもするお年寄りになると思ったら全然あり得るなと思った次第。

 

はい。

実は興味を引くために大げさな記事タイトルにしました。

釣りかもしれないので、「釣られたクマー」と思った人はブラウザをそっ閉じしてくださいね。

釣ってごめんね。

 

 ※今回は投票の話をしますが、特定の政党を揶揄したり、誰それがダメというはなしではなくて、投票率を上げていい方向に向かおうぜ!という話です。

若者向けに書いてますが、大人も読んでくれたらうれしいです。

あと、語尾がブレブレです。

 

 

ようし、みんな選挙には行っているかな?

行くだけじゃなくて投票もよろしくしたい。

 

 

去年、埼玉県に住んでいたので埼玉県知事選挙を例に出すが、

令和元年8月25日(日曜日)の投票率は32.31%だった。

 

7割近い人が投票していないのである。

 

さきに百合子が勝利した都知事選も55%の投票率だという。

 

若者よ、投票に行け!さもないとスマホやゲームがなくなるかもしれないぞ!

 

というのも、ルールを作るのが、この選挙で選ばれた人たちだからである。

 

 

 

日本は、麻薬ダメ、武器の所持ダメ、飲酒運転ダメとなっている。

 

これらは、ルールとして作られたからダメなのである。

わかりやすいのが飲酒運転ダメであろう。

 

実は数十年前は飲酒運転は当たり前の時代があった。

飲み屋に行ってそのまま車で帰る。

便利である。

 

でもその代わりに事故が多かった。

人身事故も多かった。

死亡事故も多かった。

 

だから、飲酒運転がなくなるように罰則が強化された。

 

時代や世相を鑑みて、ルールは作られたり修正されたりする。

最近の事例ではあおり運転ですな。

あおり運転が世間的に注目されて「これは問題だ!」となったから道路交通法に盛り込まれた。

 

飲酒運転の場合を振り返ってみても、飲酒運転で事故や人身事故や死亡事故が増えて「問題だ!」と思ったから、罰則を強化しようと思われて実際にルールが修正されたというわけ。

 

 

じゃあ、これが将来的にスマホやゲームが禁止される流れになるという可能性もなくはない、と言えないだろうか。

 

他国ではあるが、ゲーム規制というのが実際にある。

実際の販売がダメだったり、表現が規制されているところもある。

 

つまり、選挙で選ばれた人たちが「ゲームはけしからん!」という考えに偏ってしまうと、ゲームが禁止される可能性も出てくる。

 

Ω<「その理屈はわかったけど、俺っちが投票に行っても一票にしかならないしなんも変わらないよ?」

 

しゃらくせーよ!

 

あ、最近しゃらくせーって言葉の語呂が良くて使いたいだけです。はい。

 

 

先の百合子の選挙は投票率は55%でしたが、つまりは投票してない人が45%もいる。

 

じゃあ、この45%が特定の立候補者に投票したら間違いなくトップをとれるだろう。

 

でも、選挙で選ばれる人たちからするとこの45%の人は投票に行かない人として認定されていて、ないものと思われている。

 

じゃあ、投票に行った55%はというと、もうほとんどがその人(特定の立候補者)を支持しますっていう人たち。

 

今回は、この人で、前回はこの立候補者だったなぁ、なんてふらふらしている人はあまりいない。

 

ということはどういうことかというと、一回当選して、支持者を集めたら割と安泰という事実。

 

だから、多少適当なことをしても身分は保証されているし、万々歳。

 

国会で寝ている人いますね?

なんだか仕事しているのかわかんない人もいるよね。

というのも緊張感がないから。

 

適当をしていても、当選の実績があって、次回も当選できて、それで毎年何千万ももらえたら、うん、肩の力抜くよね。肩の力抜いたついでに寝るよね。

 

たとえるならば、定期試験のときに、本来監視役の先生が、毎回開始五分後に教室を出てタバコを吸いに行って、先生がいない間何をしてもおとがめなしだったら、カンニングする人いるよね?って話。

 

 

でも、先生が席を外すのが30秒だったら、なかなかそんな不正はできないし、したとしても見つかる可能性があるから、きちんと真面目に試験を受けようって思ったりするよね。

 

えっ、カンニングと女湯の覗きは男のロマン

 

君とはうまい酒が飲めそうだ!

ということはまた置いといて。

 

 

適当にさせているのは、支持者の盤石性。

毎回決まった票があって、当選するならだらけるのは当然。

 

でも、ここでいつも僅差だったら落ちる可能性が出てくるよね。

 

自分が10万票で、対立候補が1万票だったら安心だけど、自分が5万6000票、相手が5万4000票だったら「やれやれ、気を引き締めないと」って思うはず。

 

気を引き締めるっていうのは、つまりきちんと仕事をするってことにつながるんだ。

 

だって、対抗馬が有能な人だったら次回で絶対に落選しちゃうからね。

 

 

だから、自分が投票した人が落選したとしても、投票率が上がるってことは、自分の支持率が変動するかもしれないって思わせる効果があるんだ。

 

そうしたら、選ばれた方としては頑張るしかないよね。

そこにいるだけの人ではなくて、きちんと役割を果たそうと思う政治家になってくれる。

こういったことが大事なんだぞ。

 

 

 

じゃ、次ね。

 

当選した人の支持者はあまり変わらないってことを言ったけど、支持する人たちは、その人を当選させると自分にいいことがあるって思っている人がいるってことね。

 

 

例えば、ぼくは新潟県十日町市出身だけど、「十日町市に予算を1000億円分配し、雪がそんなに(1m未満)なくても除雪作業、屋根の雪下ろしをし、雪で困ることがないような街にします」なんて公約を出してくれる人がいたら絶対に投票します。

 

だって、ぼくたちのために仕事をしてくれる人だから。

 

そんな支持者に支えてもらって当選した人も、当選させてもらったのだから、その支持者の人のためになることをしたいと考えるよね。

 

だって、その支持者たちを裏切ったら次の選挙で投票してくれないわけだから。

 

 

ということは、投票に行った人が得をするような世の中になっていくという流れがある。

 

 

自分が投票したい立候補者がいなくても

 

Ω<「5年以内に消費税を20%にします」

 

って候補者がいた時に、投票に行かないってことはその候補者になっても構わないって考えを表明しているのと同じなんだよね。

 

だから、その人が当選して本当に消費税が20%になって生活が苦しくなっても、遠因として自分たちが許容したってことになるんじゃないかな。

 

そんな世の中が嫌だったら、投票にって別の候補者を選ぶという意思を見せつけないといけない。

 

Ω<「えー、でも政治ってよくわかんなし・・・」

 

大丈夫!ぼくも全然わからないから!

 

わからないけど与党じゃないところに投票して、野党が第一党になったことがあったことがあったよね。

 

でも、その時はあんまりよくなかった。と言われている。

でも、試してみたからわかったこともあると思う。

 

閉塞感があって「なんとかしたい」と思った時代があったから変わった。

その結果がうまくいかなくてもいったん「NO」を言えたのはよかったように思います。

 

 

伝えきれたかはわからないけど、君たちが持っている一票は大きな力を持っているんだぞ(おそらく)。

 

というわけで、自分の住んでいるところで選挙があったら行くことにしてみませんか?

 

 

とりあえず

 

Ω<「スマホやゲームは有害なので禁止」

 

と言っている候補者がいたら、対立候補者に投票しましょう!ぼくはスマホもゲームも好きなので…。

 

そんな公約を掲げる立候補者は逆に主張がはっきりしていて好みが分かれそう。

 

 

 

といった具合に今回も腰かけブログの雑談でした。

 

 

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こちらもね、清き一票をよろしくしますよ!まったくもう。

 

 

 

 

2.31

英語やプログラミングの前にやる基礎教育を考える話

今週のお題は「おじいちゃん・おばあちゃん」だそうです。

 

少し前にランニングしていたら、近所の子供と近所のお年寄りがいて、子供のほうが勉強のことを話しているようでした。

 

Ω<「いやー、でもね、私らの頃とは内容が違っているから、おばあちゃん、きっと今の勉強、全然わからないよ・・・」

 

と話していたおばあちゃん。お元気ですか?

 

それは仕方のないことで、時代によって勉強内容は変わってくる。

でも、おばあちゃん、あなたはその時代の中で教えられたことを一生懸命頑張って勉強されたのでしょう?その頑張りをぼくは褒めますし尊敬します。

 

って、ごめん。

令和の脱線王、十日町Pです。

 

みんな、小学校から英語やプログラミングをやるようになるって知ってるかな?

 

本気か。

 

時代に即したものを教えるのは当然である。

今から竹やりの使い方を教えてもF-22を落とせまい。

 

むしろ、竹やりで落とせたとしたら、その方法を世界の共通学習方法に認定したい。

 

いえ、ぼくは非戦主義なのでうそです。

 

時代に即した勉強が英語やプログラミングなのだとしたら、一面を見すぎているといえる。

力を増してきた中国に対応するために中国語ではだめなのか?それとも特定言語に限定せずに選択式ではだめなのか?

まぁ、選択式だと教える先生がいないから難しい。

 

プログラムができることが有効活用できる職種がどれくらいあるのだろうか。

 

Ω<「プログラムを学ぶことが重要なんじゃなくて論理的な思考を鍛えるのが目的だから…」

 

じゃあ、プログラムじゃなくてもいいんじゃないの?

 

Ω<「プログラムを書けるような技術者が足りていないから…」

 

他の産業も人手不足のところはいっぱいありますが。

 

英語もプログラミングも、末端といいますか、特化した能力の一つ。

それができれば役に立つ場面もあるけれど、小学生くらいの小さい頃ならもっとその後の人生で幅広く役に立つことを教えてあげたい。

 

それは「興味を持つこと」です。

 

Ω<「は?なにそれ、何の役にも立たねーよ!」

 

はい。すぐには役に立ちません。

 

でも、その人を成長させる活力になります。

 

子供の頃はいろんなことに興味がありました。

「なんで空は青いの」

「どうして亀をいじめたらだめなの」

「なんで機織りをしている間に戸を開けたらだめなの」

「どうして戦隊もので戦っているシーンが遊園地の時に、アトラクションは激戦を横目にしながら稼働しているの」

 

知りたいという欲求を満足したいために多くのなぜを問いかけていたように思う。

 

でも、情報がたくさんあると、目の前に用意された情報で満足して、自らの「なぜ」という気持ちはだんだん薄れていったのではないか。

 

新聞を見れば、世間であったことを教えてくれるけど、情報を受け取っている状態で起きている事柄に「どうしてこうなったのか」という気持ちはあまりわかないだろう。

 

本屋に行っても雑誌などがあふれて、何の気なしに手に取れば、知りたくない情報でも入ってきてしまう。

 

求めなくても与えられ続けているという環境が、自分から探しに行くという意欲をなくしているのではないかと考えられるのである。

 

小学校の時の自由研究に頭を悩ませた小学生は多いと思う。

自由にする研究ということ自体に慣れていないので、フォーマットを作ってもらわないと何もできないのだ。

 

歳を取って、本当に何でもしていいんだな?という知識を蓄えて、あの頃に戻ったとしたら、手持ちのファミコンソフトのレビューを行ってみたい。

 

ジャンルごとに、プレイ方法、お買い得感などいろんな視点から書いたら超大作の自由研究ができそうである。

 

 

まぁ、ぼくの話は置いておいて。

 

興味を持たせるには、疑問を持った時に、その子自身が自分のやり方で解決を求め、成功を得る体験を積ませるとよい。

 

例えば、ホットケーキを焼きたいと思ったとしよう。

 

この時に、全てを用意するのではなくて、詰まった時には助け舟を出す。

そんなスタンスで、自力でやり遂げたと思わせながら成功へと導くのだ。

 

ホットケーキを作るときに焼いて見せるのではなく、粉までは用意して、水で溶いたりはやらせてみる。

 

生地を焼くのだってやらせてみる。

うまく焼けないようならおたまを動かさずに、フライパンの中央にだけ生地のもとを垂らすようにアドバイスする。

 

焼けてきたホットケーキはひっくり返すときにたたきつけないなど。

それでうまく焼けたと納得してくれたら素晴らしい成功体験を得たと思っていいだろう。

 

Ω<「人生はうまくいかないという教訓を積ませるほうが良いと前の記事で書いていませんでしたか?」

 

君は鬼か?

 

そんな年端もいかない子供にそんな真似はさせられませんよ。

 

 

時代は進んできていて、自分の頭が良くなくてもインターネットで調べればたいていのことはわかるようになっている。

 

だから、頭を鍛える勉強の仕方より、調べ方を学んでそれをどう活用していくかがこれからの時代に求められている能力だという人もいる。

 

でも、その前に、やはり興味を持つ力。関心を持つ力をぼくとしては推したい。

 

インターネットで調べるという行為も大本をたどれば、解決方法を知りたいという興味からである。

 

自分で解決するということを放棄して、誰かに答えを求め続ける対処法も時には間違いではない。

 

でも、自身で興味を持ったことに、納得のいく解決ができた時にうれしさと満足感を感じるとぼくは思う。

 

また、同時に人に頼らない自立心をはぐくむものだと思う。

 

 

実は少し前に「クニミツの政(まつり)」というマンガを読んでその中のエピソードで学級崩壊していた小学校の生徒を叩き直すために、メダカ捕りに行ったらそこからいろんなものに興味を持ち始め、クラスが良くなっていったというエピソードがあった。

 

大人になると初めては少なくなっていくが、子供は初めてにあふれている。

 

その初めてをどう扱うかによって、その後の姿勢が変わってくるように思うのだ。

 クニミツの政ではメダカを発端として、様々なことに生徒が興味を持ち始めていった。

先生はさらに興味を持ちそうなものを持ってきて、楽しませながら成長させる。

 

とてもいい関係だと思った。

 

子供だけではなく、大人もそうだ。

大人は逆にやるべきことがあってほかのことに注目していられないという状況がある。

今日締め切りの仕事があれば、他のことにかまっていられはしないだろう。

そんな生活が続けば、その人の見識は徐々に狭まっていく。

 

だからこそ、大人にとっても興味を持つことは重要なことである。

 

ただし、スカートの中身にばかり興味を持っているような大人は警察の厄介になる可能性がかなり高いので注意が必要だ。

そう、俺のようにな!(きらーん)

 

 

 

 

毎回書いてますが、このブログはさるのこしかけさくらももこなので、本ブログのほうも何卒よろしく申し上げたい。

 

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三日坊主を悪とする風潮に喝を入れる話

亀の甲より年の功

今週のお題は「おじいちゃん・おばあちゃん」です。

 

おじいちゃんおばあちゃんは、お兄さんお姉さんであったり、お父さんお母さんであったり、色んな時代を経ておじいちゃんおばあちゃんになっている。

 

おじいちゃんおばあちゃんで生まれてくる人はいない。

そういったことが若い時はわからない。

自分が年を取り始めて初めて分かる感情であろう。

 

今回も関係ないことを語ってしまいました。

十日町Pです。

 

 

みんな、趣味は持ってるかな?

夜関係の変な趣味の事じゃないぞ☆

 

自分が興味を持ったことをにチャレンジしてみるというそんな感じの趣味だ。

ハードなモノからソフトなものまでいろいろあるだろう。

 

読書は簡単に始められる趣味であるな。

動画鑑賞・映画鑑賞も同じだ。

 

これらは「眺める」という行動を使った趣味なので、比較的楽だ。

 

じゃあ、料理はどうだろうか。

素材を包丁で切ったり、味付けをしたり、火を使って炒めたり煮たりと、結構アクティブな趣味である。

これは鍛錬が必要と言えば必要と言えるし、適当でいいならどこまでも適当でいいという、人によっては熟練度に幅のある趣味と言える。

 

 

ちょっと垣根をすっ飛ばして、楽器をやっている人はいるかな?

楽器はかなり大変なイメージである。

まずはなによりも楽器を手に入れないといけない。

つまり、ある程度まとまったお金が出ていくのである。

 

まとまったお金が出ていった後に、さらに過酷な練習を積み重ねてやっと人並みの腕前になれるということを、楽器をやろうと思った時には知らないはずである。

 

なので、普通に挫折があり得る。

 

 

ここで、目標を達成せずに辞めてしまうのは良くない、またはもったいないという人がいる。

 

確かに。少なくないお金を出し、多少は練習した時間が惜しいかもしれない。

一度志した事柄を投げ出してしまうのは、他の分野でも投げ出しがちの癖がついてしまうかもしれない。

 

そのため、三日坊主は良くないよ。という教えが割とまかり通っている気がする。

 

だけど、あるタイミングでは、継続する環境にないということもある。

 

例えばだけれど、好きな音楽に感化されて楽器をやろうと思って始めたけれど、うまくいかないからやめた。

これは、モチベーションがそんなに高くなかったのが原因である。

 

数年後、恋に夢中になる年頃になり、意中の女性が

 

Ω<「ギターできる人ってかっこいいよね」

 

っていったならば、死ぬ気で練習するであろう。

 

つまり、自分を突き動かす行動原理は、その時々によって異なる。

勉強や仕事をしていて、やる気がある日とやる気がない日があることを思い出してもらえれば、きっとわかると思う。

 

やる気が出ればノリノリになり、やる気が出なければ、目に見えるすべてが億劫である。

 

だから、やる気が出なくて続けられなかったのは、仕方がないともいえるので、そこにあまり目くじらを立ててはいけない。

 

本人が辛いと思っているものを周りが強要してしまうのもいかがなものか。

 

Ω<「でも、やることすべてが中途半端になったらその人の人生にとって良くないのではないでしょうか」

 

中途半端になるのは、その人の性格というよりも、その人にとって燃えるものを見つけられなかったという事の方が大きい。

 

初めて読んだマンガが面白くて、徹夜で全巻借りて読んだ、

とか、

斜面の緩いところが滑れるようになって、徐々に上級コースまで行って、スノーボードを滑り倒した

とか、

自分で作ったサバの味噌煮が缶詰より全然おいしくて笑えてきた

とか。

 

そういうものに出会えれば、周りが止めようとも自らが努力にいそしむ。

 

そんな物事にぜひ出逢ってもらいたい。

 

 

先に述べた三日坊主は良くないよという考えは合っているけど、間違ってもいる。

 

つまり、一度決めたことをやり通さないと人としてダメというような強いニュアンスで諭してしまうと、やり通すことに自信がない場合、やり通せることを選んで目的にしてしまうのである。

 

それはつまり、チャレンジが不足してしまうという事になる。

 

Ω<「登山とか興味あるけれど、山頂にたどり着けなかったら恥ずかしいしやめておこう・・・。」

 

Ω<「ヴァイオリン習ってみたいけど、そんなに投資できないし、うまくなる自信もないしやめておこうかな・・・」

 

しゃらくせーよ!

 

 

興味を持つということの感情の鮮度は実は短い。

お昼にニュースなどで見て興味を持っても、夜には忘れていることがほとんどである。

つまり、興味を持ったら実行するという事が大事

 

そして、興味を持ったことに挑戦していくと、割と高い確率で失敗することに出会う。

 

楽器の例なんかいい例で、楽器をやろうとして、本当にきちんと演奏できるようになる人はどれくらいいるだろうか。

 

5割もいないんじゃないだろうか。

 

でも、そのチャレンジして失敗するという経験が実は大事で、人生一筋縄ではいかないということが分かるようになる。

そして、失敗しても別に人生には大した影響はないことが分かる。

 

悲しいことに自殺してしまう人は年間にかなりいる。

仕事のし過ぎで追い詰められて、最後には…というケースもある。

 

この人たちはきっと失敗のない人生を歩いてきたように思う。

だから、自分ではどうしようもない状況になっても、

「ここで失敗したら私の人生は台無しになる…」

という思いが強くなって人生を台無しにするよりは死を選ぶという考えに至ってしまう。

 

エリートコースじゃなくてもいいし、別に貧乏になってもいいじゃないか。

でも、子供のころから三日坊主じゃなくて決めたことはやり遂げなさいという教育を受けていたとしたら、その場から逃げ出すことなんて考えられないだろう。

 

辛くて、まさにDEAD or ALIVEの状態になっても、

受け持った自分が仕事をこなせないのが駄目と、自分で責任を全て負ってしまうのだろう。

 

「自分には無理」とか、「今の自分ではできないけれど将来はきっと…」みたいな

判断が下せれば、その場から一度撤退するという考えも生まれるはずである。

 

 

 

三日坊主は別の見方をすれば、自分には合わないと思って見切りをつける判断力が優れているという見方もできる。

 

本当は飽きっぽいかもしれないけれど。

 

本来の目的を達成できなくても得られる経験は沢山ある。

例えば、ピアノをうまくなろうとして練習したけどうまくならなかった。

でも、譜面は読めるようになったし、オタマジャクシの意味も分かるようになった。

 

ピアノはうまくならなかったけど、ピアノを使ったジャズは好きになったなど。

 

これはピアノに挑戦しなかったらわからなかったことである。

 

だから、自分で思っている事が達成していなくても何かしらは感じている。

 

ピアノがうまくならなくて「ピアノつまんねー」と思ったとしても、そう思えたことがピアノをやった意味とも取れるのだ。

 

だから、三日坊主を恐れずに何でもやってみたらいい。

100のチャレンジのうちに1つでもワクワクすることを見つけることが出来たら、あなたの人生は豊かになっていくのだから。

 

初期投資がかかるものばかりやってすぐにやめちゃうと財布が破綻するのでそこだけは節度を持って対応してもらいたいZO☆

 

 追記

早く投稿しようとして、書こうと思っていたことを忘れてしまった。

 

三日坊主にしていいのは個人の趣味・興味・勉強に関してだけです。

誰かとの約束を交えたときは、その時の気分でやめてはいかん。

 

Ω<「明日から一緒に朝走ろう」

 

「うん」>Ω

 

 

「うんとは要ったものの、走るの面倒くさいな…。三日坊主でもいいと十日町Pが言っていたし、やーめたっ」>Ω

 

↑こんなのはいけません。

 

人との約束が絡む場合は、あなたの信用問題になっています。

だから、もし約束としてなにかを始めたならば、やめるときにはきちんと理由を説明して相手に納得してもらうほうが良い。

 

そのあとで、その人と関係が悪くなってもいいなら勝手にやめるのも仕方ないが、人の評判はいろんなところを駆け巡ることになる。

 

人との関係をないがしろにする、約束を破る、裏切る。

こういった行為は、1回やるまでは実は慎重になりますが、1回破ってしまうと、「前もやったしいいか」という感情に簡単に傾きます。

 

三日坊主がかわいく思えてくるくらい、本当に簡単に約束を破る人になってしまうのです。

 

そのくらい、人との約束を破ることは危険な行為。

だから、あなたがもし約束を破ることを軽く見ているなら改めたほうがいいし、周りに約束を破る人がいたら叱ってあげないといけません。

 

と、こんなことを書いていますが、ぼくも他人の行為をそんなに怒れないです。

でも、もし身近な人、大事な人がそんな行為を働いたら、怒ります。

 

踏み越えてしまうと見方が変わってしまうものってたくさんあります。

だから、見方が変わる前に、「見方が変わる」ってことを知っている周囲の人がなんとかこちら側にとどまるようにしてあげないといけないのです。

 

 腰かけブログなのでまとまりがなくなった。

 

ぼくの本ブログは以下のブログなので

ぜひよろしくしたい。

 

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