早口だったり、カットを多用する主張系Youtuberの動画は少し身を引いて話を聞いた方がよいという話
【今週のお題】は「おじいちゃん・おばあちゃん」だそうである。
昔は若かったのに、時の流れにより「おじいちゃん・おばあちゃん」になる。
自分の中の意識と肉体の状態が離れてしまうと、体が老化しているという事実を突きつけられた時に軽いショックを受けてしまうので、40を過ぎたら、毎日「もう自分は若くない」と言い聞かせておきましょう。
えっと、また脱線しました。
令和の脱線王だな。
今日のお話は「早口だったり、カットを多用する主張系Youtuberの動画は少し身を引いて話を聞いた方がよいという話」です。
みんな、Youtubeは好きかな?
ぼくはあまり見ないです。ニコニコ動画の方が好きといって差し支えない。
Youtubeでお金が稼げる!と知れ渡るとYoutuberと呼ばれる人々が台頭してきた。
エンタメとして動画を上げる人から、人のために何か解説したいという人、俺は金を稼ぐぜぇぇぇぇという思いを隠しているつもりで隠しきれていない人など様々な人がいる。
その中で、解説系のYoutuberでカットを多用している人の動画は少し落ち着いた環境で冷静に観てもらいたいというのが今回の趣旨。
「カット」というのは、動画を切り貼りして編集しているという事。
いらない部分を削除するイメージです。
例えば、元の素材が10分の動画だとして、噛んでしまったり、「えー」とか「それは・・・・」とか沈黙が多い時は、その部分をカットして、しゃべりの間が空かないようにして5分くらいに編集してたりする。
エンタメ系の動画ではカットはテンポの良さを生み出すので問題はない。
今日の料理で料理のレシピを紹介して「30分くらい置いておきます」の説明の後に「こちらが30分置いたものです」といって、あらかじめ仕込んでおいたものを取り出すが、あれもテンポよく番組を進めるための仕掛けであり問題はない。
気にしたいのは主義主張を述べている動画である。
「○○すべき!」「これを買え!」「○○とは付き合うな!」
いろんな意見がある。
意見を言うこと自体は問題ない。
その意見に賛同できれば主張に沿えばいいし、おかしいなと思ったら実践しなければよい。
しかしである。
主義主張を行っている人々は動画の性質をよく知っているので「どうすれば説得しやすいか」も計算済みの事が多い。
動画の視聴者を自分の説に引き込むために、カットを多用している場合があるので注意が必要だ。
会話の場合は、相手の話が一方的にとめどなく何十分も続くことはない。
話の切れ目があれば、こちらから話しかけたり、相手の話したことを理解して、頭の中で吟味したりする。
しかし、切れ目がないと、視聴者はまず聞く態勢になり、水が流れるように流れてくる情報を理解することだけで精いっぱいになる。
反論する余地を視聴者に与えないのである。
視聴者は頭の中で内容を理解して話に置いていかれないようにする。ここはおかしいんじゃないか?という疑問を挟めない状態である。
そしてこの状態により、普通の会話をしている時よりも、その話し手の言っている内容を信じてしまうのである。
そうして信じた結果、伝えた情報に納得してもらえれば、そのYoutuberへの信頼は増すことだろう。
Youtuberの目論見は以下のような流れである。
主義主張(情報)で相手を納得させる
↓
自分を信頼してもらうようになる
↓
自分の意見が通りやすくなる(正当化される)
↓
おススメはこれ!と言って商品を勧めてくる
↓
信頼している人は買ってしまう
全員が全員こうではないが、こんな狙いを込めているYoutuberもいることを理解しておいてほしい。
物の売り買いではなくても、自分を信頼する人が数多くいれば、それは潮流を生み出せる。
多くの人がやっていることに右にならえで私もやる、みたいな人は多いだろう。
自分の意識を浸透させる、つまりファンを作ることで、発言力を持とうとする人もいる。
つまり、カットを多用して間を空けずにしゃべり続けている人は、何かの意図をもってこちらを説得しようとしている可能性があるということだ。
本来は「こういう情報があるんだけれどあなたの役に立ちますか?」というスタンスが望ましいけれど、主張をする人は「この情報の通りにしないと損するよ、もしくはこうしない人はバカ」という雰囲気を出してくる。
実際に「お前はバカだな」というと角が立つので、損をする、あまり良くない結果になる、と言った、ややオブラートに包んだ言い方をしている。
そうやって自分の主張に賛同させようとしているのだ。
これは、カットを多用していなくて、早口の人も同じような狙いがある。
結局は十分に思考されると「おかしいな?」と思われてしまうので、考えさせないようにしている。
だから、カットを多用したり早口だったりする人の主張は落ち着いて聞いてほしい。
なんなら一時停止して、内容をかみ砕いてから動画を再生してもいいくらいである。
実際の対面式の商談の時もこの心がけを思い出してほしい。
対面式で、マシンガントークで商品を勧めてくる人はこちらを説得して買わせようという意識がある。
これは商品を売ればその人の成績になるのだから必死であり、当然の話。
買う方としては、その商品がどのようなものなのか、じっくり考えてから返答したほうが良い。
その場で即決をせずに一旦置いておくと冷静になれるので、失敗が少ない。
NHKのニュースを見たりするだろうか?
NHKのアナウンサーは、主観を交えずに事実を伝えることを目的としているので、理解しやすいようにゆっくり喋る。
1つのニュースが終われば、一定の間が空く。
これは、伝えたことを無理やり相手に納得してもらう必要がなく、情報が相手に伝わればいいというスタンスだからである。
NHKに慣れていると、カットを多用している人たちの動画に違和感を感じる。
くれぐれも注意しておくが、カット多め、早口マシマシ、話固め、表情濃いめの人の動画は前のめりにならず、冷静な気持ちで視聴してもらいたい。
と、得体のしれない中年からの忠告である。
今回の内容も「本当の事なのか?!」と疑りながら読んでもらうとなお良しです。
もしぼくが、Youtuber不信用作戦を展開していたら、この話はでたらめかもしれませんからね。
こんな益体もない話をしているぼくのメインブログはこちら
はてなブログは腰掛である。
十日町PのDTだったら何が悪い!
https://around40-dt-tokamachip.info/
味覚を鍛えたい方におススメなのは豆腐とタコであるという話
今週のお題は「おいしくもりもり」だそうである。
と思っていたが、詳細欄を見てみると
今週のお題は「ごはんのお供」です。
と書いてあり、はてなブログの初心者を惑わす仕掛けとして機能していることが分かる。
これに引っかかる人は「少年の心を忘れない大人」ってやつになるのだろうか。
少年の心の解釈が「わがまま・無責任・努力の放棄・やりたいことだけ全力」だったとしたら魅力を感じる人はいるのだろうか。
Ω<「少年の心を忘れない大人の人って素敵☆」
みたいなことを宣う恋心100%女子は、「少年の心を忘れない大人」の別解釈もあることに気が付かないと変な男が寄ってくるぞ!そう、俺のようにな!(きらーん)
本筋からかなり外れてしまった。
そうそう、味覚の話であった。
料理を食べた時に「うまい」と感じる機会は多い。
それは素材がいいものであったり、「うまい」と感じる程度に味付けがされているからである。
特に今の季節は塩を振ったさんまだけで幸せになる。
食卓を豊かにしてくれる、食料生産者(素材の生産者も加工食品の加工者も該当します)に敬礼!である。
しかし、その一方で、味付けがされていない食材を食べた時に味がしない、と感じる人もいるだろう。
味がしないから、調味料をかける、ドレッシングをかける、醤油をかける、だしをふる。
対処方法は沢山ある。
でも、本当に味はしていないのであろうか。
普段の食事で味が濃いものを食べているから、相対的に味が薄い料理は味がしないと思い込み、果ては「まずい」と思ってしまう。
Ω<「料理は味云々じゃなくて食べられればそれでありがたいじゃないか」
もちろんそうである。
うまい、まずいで料理の優劣をつける気はない。
が、いろんな味を理解できた方が人生はより豊かになる、といいたいのである。
といっても、他人との位置比べで優位に立つためではない。
Ω<「これはね、『引き出し昆布』の技法が使われていて、昆布を湯にさっとくぐらせただけなんだけど、旨みがあるよね」
などのうんちくを聞かれもしないのに滔々と語りだすとしたら、知らずのうちに煙たがられてしまうだろう。。
そんなことではなく、季節が変わって、旬のものを食べて「ああ、うまい」といいながら、日々の生活をすることがどんなに幸せな事か。そんな豊かさを実感してもらいたいという事である。
いかんいかん、すぐに脱線してしまうのが私の悪いところ。
で、タイトルの話に戻そう。
豆腐とタコは、一般的にそんなに旨みの強い素材ではない。
旨みの強い素材は、ご飯のお供になったりするが、素の豆腐を、ご飯にかけて食べたりはしないし、生だこをご飯に乗っけて食べる人も稀だろう。
Ω<「生だこなら寿司があるじゃないか」
寿司もあるけれど、寿司の場合は飯が酢飯なので、別物としたい。
豆腐は、豆腐の周りが水になっているのではなく、豆乳になっているような豆腐をおススメする。
おぼろ豆腐なんかいいな。
豆乳は青臭いというイメージを持つ人もいるだろう。
確かに、パックの豆乳は独特の風味があり、好きな人と嫌いな人がはっきりしている。
パックの豆乳は健康のために飲む人はいても、好きすぎて飲むという人はあまりいない。
製造会社も素の豆乳だけでは愛飲者が限られてしまうという事をよくわかっているのか、素の豆乳だけではなく、様々なテイストをつけたパックの豆乳の製品を増やしている。
本来豆乳そのままの味はうまいので、新鮮な豆乳をパック詰め出来ればいいのだが、品質を保って販売するためには味が犠牲になるのは仕方ないのかもしれない。
また脱線してしまった。
豆乳に肩入れしている場合ではない。
おぼろ豆腐を浸している豆乳は、味わってみるとかすかに甘い。
そしてさらに豆乳の味がする。
この味を味わうためには、「豆腐にはとりあえず醤油をかける」というルーティーンを封印してもらいたい。
素のままの豆腐と豆乳を口に入れるのだ。
Ω<「豆腐なんて全然味がしないよ…」
そういった意見も実は正しい。
安く生産するために、味を犠牲にしている豆腐もあることはある。
ただ、その豆腐は「安い豆腐をご家庭にお届けする」という目的があるので悪い商品ではない。
味がしない食べ物は悪、ではなく、買う人のニーズに合わせていると思ってもらいたい。
そりゃあ、金が許せば、作る方だっておいしいものを食べてもらいたいに決まっている。
が、生産の時に条件が決まっていれば、条件に合わせるためには何かを捨てなければいけないのだ。
という訳で、すみません、ダメ出しをするわけではないのですが、1丁48円の豆腐ではなくて、160円くらいのおぼろ豆腐を買って食べてみて欲しい。
1丁48円の豆腐から、豆腐の旨みを感じるのは逆にかなりの上級者なので、初級者はおぼろ豆腐で。
おぼろ豆腐の豆乳を味わった後に、豆腐本体に箸を入れる。
柔らかいその柔肌を箸で扱い口にほおばるのだ。
慣れない人はスプーンでどうぞ。
豆腐にもほんのりとした甘みの他に大豆の味を感じることが出来るだろう。
Ω<「言われたとおりにやったけど、全然味が分からないよ…」
よし、それなら豆腐を変えてみよう。
別の豆腐を買ってくるのだ。
そして、買ってきた豆腐を食べてみる
Ω<「よくはわからないけど、何かが違う」
それでいいのだ。
何かが違う。
それは無意識に感じている豆腐の差である。
味が違うものを食べるという事で、味覚の広がりが増えていくのである。
このような食べ方を続けていくと「じゃあ何が違うのか」という疑問を持つことになる。
その時に初めて、素材の味だったり、製法を気にしてみるとよい。
もしかしたら製造日などによっても違いが出るかもしれない。
素朴な味わいとも言える豆腐にもやはり違いはあるのだ。
その違いが微妙であっても食べ続ければ、何かが違うという事はわかる。
何かが違うということが分かってから、醤油を垂らしてみる。
醤油の香ばしさによって、豆腐の味が変化するのがより分かるようになる。
ワクワクしない?
何となく食べていた豆腐の潜在能力を引き出せたみたいで嬉しくなる。
そして、豆腐の違いが少しでも分かれば、他の濃い味のものも違いが分かりやすくなるのである。
よし次だ。
タコである。
タコは少し古くなるとかみ切りづらくなり、生臭さも増すので、なるべく新鮮なものを買い求めたい。
タコを薄くそぎ切りにする。
タコは寿司ネタのように大きくなくてよい。
また、ごろっとした塊でなくてもよい。
薄くしたタコの刺身を作り、口に入れて、長めに咀嚼するのだ。
タコの身から、だし汁とはいかないまでも、旨みが出ているのが分かるだろうか。
嗅覚とも連動しているので、鼻通りをよくしてから食べてもらいたい。
鼻詰まりの時は、わかりづらい味である。
Ω<「タコはかみ切れなくて、なんだかゴムのようで好きではない」
そんな意見を言う人もいるだろう。
そんな時は、タコの身が肉厚すぎたのかもしれない。
薄切りにして、いつもより長めにもぐもぐしてほしい。
「無味ではない」
それが分かれば上出来である。
タコから何か旨みが出ているということが分かれば、タコの身に醤油をべったりとつけて食べることもなくなるだろう。
べったりつけて食べるのが悪いという訳ではない。
タコの味を味わいたいと思ったら、自然と醤油が控えめになるという話である。
醤油はうまくて、どんな食材にも合うことが多い。
だから、味が薄いときについつい手を伸ばしてしまう魅惑の調味料なのだ。
そのため、素材よりも醤油の味ばかりするような状態になりがちである。
そうすると、素材のほうは味がないと感じる人もでてくる。
食べ物を買ったときについてくるたれなどは、先に入れるのではなくて、何もかけずにそのまま食べて、ふたくち目からはたれをかけるようにしたりするといろんなバリエーションが楽しめるぞ。
なんだかうんちくめいたことを長々と書いてしまったが最終的にしてもらいたいことはこうである。
ひょいぱくっ。
「ウマイ!」
これであなたの人生はさらに豊かになるだろう。
うん、なんだって?
・・・長々書いて、豆腐とタコを食べるのを勧めているだけじゃないか?
そうだとも!豆腐もタコもうまいものだぞ!
十日町は別に豆腐もタコも名産品ではないけどな!
そして以下のブログが私のメインブログである。
長々書いてきて実は宣伝だったといういやらしさ。
はてなブログは腰掛である。
十日町PのDTだったら何が悪い!
自己肯定感を高める方法
【今週のお題】おいしくもりもりだそうである。
今週のお題は置いておこう。
自分に自信を無くしてはいないだろうか。
自分に自信がないと「自分なんか・・・」と思って卑下することとなり、自分の能力を十分に発揮できないことになる。
自信がないのは自身の能力が原因という事もあるが、環境のせいという要因も忘れてはならない。
総合的に見ると、そんなに自信を無くさなくても大丈夫だよってことを言いたい。
しかし、そんなことを言われても持っていない自信を構築するのは難しいだろう。
そこで、簡単に自己肯定感を高める方法を2種類紹介したい。
1.人の役に立つ
2.なんでもいいから金を稼ぐ
たったこれだけである。
1に関しては、「人のために何かすることが出来た」→自分は必要な存在
として、自己肯定感を高めるものである。
ただし、ここで、「募金」で役に立とうとすると、あまり自己肯定感は得られない。
投げ銭をするのは、反応が薄いために行為に対して納得感を得にくいのである。
初詣でお賽銭を投げても「俺、SUGEEEEEEEE!!!!」とはならないはずである。
赤い羽根募金に募金するのは悪い事ではないけれどテンションは上がらない。
ではどうしたらいいかというと、お手軽なのは「献血」である。
ぼく自身、献血マニアと呼べるくらいの回数はこなしてきた。
献血に行くたびに「血液が不足しています!」の張り紙がしてあり、ああ、輸血を必要としている人がたくさんいるのだなという思いに駆られる。
そして、現在はコロナ真っ盛りであり、密になるからと、献血に行く人も少なくなっている。
いつもは混雑している献血ルームもすっきりしていて献血し放題である。
しかし、献血にはスパンが必要なので、そんなに毎日献血することはできない。
焦らずに一回献血したら翌月くらいまで待っていてほしい。
えっと、とにかく献血はいいぞ!という話である。
人の役に立った感が簡単に得られる方法なので、ぜひ、お願いしたい。
断っておくが、ぼくは日本赤十字社のまわしものではない。
まわしものではないが、一介のタダノ献血好きなおじさんである。
次にいこう。
金を稼ぐ。
これは、自分の能力の高さを周囲にアピールできる一定の指標である。
「俺の月給は20万」
「俺は月給50万だぜ!」
後者の方が優れた人物に見えるのは気のせいだろうか。
人格的に劣っているような気がするのには目をつむってもらいたい。
気のせいかもしれないが、一定期間に、より成果を挙げた人物は評価してしかるべきだろう。
というわけで、何が何でもお金を稼ぐと自己肯定感につながりやすい。
・競馬
・競艇
・パチンコ・スロット
って全部ギャンブルじゃねーか!
ギャンブルでもなんでも稼いだもの勝ちである。
ただし、勝てずにお金を溶かしてしまった場合は、自己肯定感を得られずに、「自分はダメ人間だ…」という劣等感を得られるので、もろ刃の剣とも言える。
自信がある人はぜひチャレンジしてほしい。
じゃあ、ここで冷静になってこの話をまとめてみると
・献血を勧めているだけ
・ギャンブルを勧めているだけ
ということが分かるな。
うん、自己肯定感は上記の二つから得られるが、より安全なのは献血なので献血をぜひお願いしたい。
くれぐれも注意しておくが、ぼくは日本赤十字社の回し者ではないぞ!
では次回までごきげんよう!
以下のブログが本ブログなので、よろしくしたい。
はてなブログは腰掛である。
十日町PのDTだったら何が悪い!
かまいたちの夜の文章が読みやすく、普段読書をしない人にもおススメ
「かまいたちの夜」というゲームをご存じだろうか。
1994年11月25日にスーパーファミコン用ソフトとして発売されて、多くのファンを持つ作品である。
ちょうど25周年でもあるが、若い人はしらない人もいるかもしれない。
かまいたちの夜2、かまいたちの夜×3(トリプル)、真かまいたちの夜とシリーズ作は作られているが、最後の真かまいたちの夜が2011年に発売されてからは続編がなく、シリーズとしては終わった感がある。
しかし、初代かまいたちの夜はいつの時代に読んでも色あせることがないように思う。
周回するゲームであるため、同じ文章を何度も読むことになるが、そこま面倒くさいとは思わない。なんとなく軽妙な語り口が小気味よくしみとおってくるのだ。
文章は主人公「透(とおる:スタート時に変更可)」の視点、いわゆる一人称視点で紡がれていくが、この透がお調子者なせいか、文章が軽い。
地の文は透の思考なので、堅苦しい文章がない。
小説というと文学的表現があって、それが小説としての味わいを出していることも確かであるけれど、小説を読みなれていない人にはとっつきにくい部分もある。
かまいたちの夜では、全て透の語りである。何かを考える時に、難しい文章を使って考える人はいない。透の思考をなぞることで、難解な表現を回避することが出来て読みやすいのだ。
地の文も透の思考がだだもれで、恋人候補の「真理(まり:スタート時に変更可)」に対して、あんなことやこんなことを考えていたりもする。
そんなコミカルな表現もかまいたちの夜の魅力だろう。
作中で殺人事件が起きてからはシリアスなムードが流れるが、ぼくは事件が起きる前のみんなのやり取りが好きだ。
香山さんと「何が一番のぜいたくか?」と話し込んでいる時の
・真冬に暖房を効かせた室内でキンキンに冷えたビール
・真夏にガンガンにエアコンをかけた中での熱々の鍋
・南極でめっちゃストーブを焚いてアイスキャンデー
・赤道直下で冷凍庫に入ってその中で(真理にさえぎられて最後は聞けない)
といったやりとりが楽しい。
なんというか、実際にそういうやり取りをしているような感じが出ていて、現実に仲間としゃべっている時のくだらない会話をなんだか盗み見られているような感じが楽しいのだ。
このあと、バラバラの他殺死体が見つかり、シリアスモードに突入するのだが、ここからは透も推理しながら、プレイヤーも事件を推理していくことになる。
プレイヤーは神の視点なので、透が気づいていないことも知っているけれど、実は透が考えていること全部が分かるわけでもなかったりする。
だから、プレイヤーとしては「こんな行動をしてほしいなぁ」と思っても透はその通りにしてくれないし、プレイヤーが選んだ選択肢に対して「えっ、そんな解釈?」と思うような行動をとる。
そのギャップが楽しかったりもする。
まとまりがないけれど、今回はここまで。
ぜひプレイしてみてください。