十日町Pの思ったことを根拠なしに言い放つブログtokamachiP’s blog

根拠がなくても自信たっぷりに言えば、説得力が増すというイリュージョンをお目にかけるブログ

希望はほんのちょっとでいい話

今週のお題】好きなおやつは何ですか?

のほかに「お題スロット」なるものがあって、数々のお題を提案してくれる模様。

めっちゃクリックしてみましたが、スロットという割に種類がそんなになくて、20回もクリックすると同じお題を何度か見かける。

 

日替わりなのか、月替わりなのかわからないけれど、もうちょっと種類を増やしたほうが、いいかなと。家電とか断捨離のお題でブログをかける人ばかりじゃないんですよ。

 

 

脱線しました。

 

 

みんな、希望をもって日々生きてるかな?

 

希望ってなんだかキラキラした響きを持っているよね。

 

「希(まれ)な望み」と書くように、「うまくいくかわからないけど、こうなったらいいと思うよなそんな明るい未来」を指しているような気がする。

 

進学・就職するときに「夢と希望を持って」みたいなフレーズがあるから、夢も希望も同列に扱っているんじゃないかな。

 

でも、夢も希望も年を取るとともに段々と達成するための意欲が下がっていく。

 

「こうなりたい!」「成長するぞ!」「夢のために頑張る!」みたいな気持ちが下がっていくのはそれを達成する見込みが下がってくるからだろう。

 

スポーツ選手では、その夢を見る時期というのは年齢が低い。

中学校、遅くとも高校までに結果なり成果なりが出ない場合は、あきらめて普通に進学する。

 

あきらめずに大学でも運動を続けて、それで世界に通用するような選手になるのはほんの一握りだからだ。そんなわずかな可能性にかけるよりも、あきらめて別の可能性を模索したほうが効率が良い。

 

で、社会人になったりして、成長を意気込むけれど、どうしようもできない能力の壁があったり、会社の中での位置づけであったり、世の中の世相を理解すると「あ、俺もうここら辺がピークだわ」と思っちゃう。

 

努力してもこの先、良い方向に向かう可能性が少ないと考えちゃうと努力はできなくなってしまう。

 

でもね、「希望」ってのはそんなにたいそうなことじゃなくていいの。

 

夢と一緒くたにされるせいか、希望もなんか、どでかいことを果たさないといけないような気持になりがち。

 

そんなことないよ。

 

希望の意味はこんな感じ

 

    1.  あることの実現をのぞみ願うこと。また、その願い。

    1.  将来に対する期待。また、明るい見通し。

     引用:https://dictionary.goo.ne.jp/word/%E5%B8%8C%E6%9C%9B/

 

多くの場合は、2番の「将来に対する期待。また、明るい見通し。」の意味でつかわれると思う。

 

で、自分もそうだし他の人もそうだと思うけれど、「人は頑張れば成長してく」って思いが結構あって、「停滞や変わらないでいるとダメ」みたいな雰囲気があったりする。

 

そんな思いがあるから、成長できない時期が長い→停滞している時期が長いと、将来に向かう気持ちってのがどんどん萎えていく。

その人にとって、どうすることもできない事柄(今現在のコロナみたいに)によって、停滞しているのかもしれないけれど、本人はそんなこと気が付けないからね。

 

さらに、その停滞している環境が、自分にとっては辛いものだったら、この辛い環境にずっといなければならないっていう強迫観念だったり、いいかえると絶望になったりする。

 

 

変えようと思っても変えられないというのは自分の無力感を感じさせることの一因だと思う。

何をやっても変えられないなら、努力なんてする意味がないという考えになるのも仕方ないこと。

 

 

でも、実は努力で変えられることなんて割とあるし、希望も実現することが多い。

ただ、それぞれが持っているイメージがでかすぎるだけ。

 

Ω<「毎年年収を100万ずつ上げていくぞ!」

 

って意気込んでいても、何年経っても昇給なしだったら、落ち込んじゃうけど、本業じゃないところで頑張れば、年に1~10万の上乗せは可能かもしれない。

 

Ω<「メディアに取り上げられるような有名人になるぞ!」

 

という人はテレビには出られないかもしれないけれど、インターネットの一部では人気が出るかもしれない。

 

 

昔持っていた、夢や希望を少しスケールダウンして、実現可能な具体的なことに目標を定めていると、努力次第ではかなうこともあるのだ。

 

 

Ω<「夢や希望が小さいなんて意味がない」

 

そうだろうか。

確かに大きな夢や希望を実現させることができれば、その人の人生は充実した豊かなものになるだろうとは思う。

 

でも、実現できそうにないことに向って、頑張って、それで心が折れてしまっては、幸せになれないのではないか。

 

頑張ることを否定しているわけではなくて、頑張った後に挫折して、その時に気持ちが絶望に向かわないのかが心配なのである。

 

人の気持ちを完全に安定させることはできない。

何かのきっかけで、さっきまでの明るい気分が吹き飛ぶほど落ち込むことだっていくらでもある。

 

落ち込んだ時に、人は簡単に超えてはいけない垣根をひょいっと超える。

 

Ω<「そんな馬鹿なwww」

 

と思える人は、極限の絶望を感じたことがない人。いや、ぼくもそうだけど。

でも、心が弱ると「もうどうでもいい」という考えが頭をよぎるのは確か。

 

ネガティブな考えは一瞬で、気持ちを支配して取り返しのつかない行動をしてしまうんだよ。

 

そうならないために、絶望まみれにならないために、日常の中にほんの少しの希望を混ぜておきたい。

 

Ω<「日常の中に希望なんてあるの?」

 

希望という言葉が変なら、やりたいことと言い換えてもいいだろう。

 

・週末に飲みに行く

・帰りにコンビニでスイーツを買う

・休みの日にただひたすらぐうたらする

・密になるといけないから気分転換にドライブ

 

Ω<「これが希望?」

 

自分に対するご褒美をわかりやすい形で与える。

これが最も身近な希望である。

 

 

Ω<「明日飲み会だから、今日はもう少し頑張るぞ!」

Ω<「あー、スイーツ食べたいスイーツ食べたい!早く仕事終わらせよう!」

Ω<「疲れたー。でも、週末ゆっくりするために、これだけやっておこうかな」

Ω<「むしゃくしゃする!どっか行きたい!そうだ!峠を攻めよう!」

 

今の現状と、少しだけ環境を変えた未来。

今の大変な状況はいつまでも続くわけじゃないんだよってことを自分が認識できればそれでいいと思う。

 

やる気もほんの少しだけわくし、ネガティブな気持ちを寄り付かせない効果も多少ある。

 

そんな小さい効果だから、希望っていう言葉は、ちょっと大げさすぎるかなぁと思う。

大げさすぎるけど適当な言葉が見つからないから希望って言葉を使って「ほんのちょっとの希望を持つ」

 

こんな気持ちを持っていてもらいたいと思うんスよ。

 

 

てな感じで今日はおしまい!

 

いやー、腰かけブログでござった。

 

本ブログは以下のブログなので

興味があってもなくても1アクセスをお願いします。

https://around40-dt-tokamachip.info/

 

 

という露骨な宣伝活動でした。